◆定例会のご案内 |
小田原のいわれのある郷土食、中世から昭和30年頃までの歴史、人物、風俗を知る食から見た復興料理を試みて、定例会をもよおしております。
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◆定例会のご報告 |
二宮尊徳の食事
来客があっても、ハレの日も特別のことはしまかった。 平成28年11月26日 |
江戸時代上期、明暦の大火(1657年)の直後、浅草の茶店で奈良茶飯という定食が大流行しました。
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奈良茶飯というのは、その土地や時代によっていろいろですが、今回は代表的な3つを取り上げました。 【写真左】江戸以前の奈良茶飯で粥仕立てです。小豆が入り、お茶で炊いて、米の5倍ですからやわらかく仕上がります。
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奈良茶飯3つの茶飯にどの添えものが合うかを楽しんでいただきました。
盆の外上から
平成28年10月1日 |
尚武会席北条三代氏康誕生500年 現在の小田原城の天守閣は、1960年に復元されたものですが、以来初めて改装し、内部の展示も大幅に変えて恒例のお城まつり。しかも、近場での行楽空気もあって街中は24万もの人出がありました。一年中神輿や提灯が繰り出すオメデタ市民ですが、祭りが多いところは災害にあった時、いち早い復興体制に役立つとの証もあるようです。
小田原北条五代 1491年〜1590年。 鎌倉時代に公家の食から一段下がった弁当やてんやもんの仕事師の日常食をハレにすえました。けれども300年も経ってくると、将軍や公家との接待を重ねるうち、恥をかかないようにと公家の様式を取り入れてきて、変てこな作法や調理仕法が混在しはじめます。箸づかい一つとっても、ごはんをはさんで食べるな、箸でごはんを横からすくって左手で受け、その手で口に入れろとか。(音を立てるなという意味でしょう)作法のみを終始こまごま記した一冊の本もいくつかあります。 よい点は、国家とはいえないまでも、こうした時の公がで食を取り上げたことです。冷めても旨く、高カロリーで日持ちがして、持ち運びができるという栄養と安全の戦陣食です。時が下って日露戦争で軍部が取り上げ、獣医は野草と自衛隊が集団調理を受け継いできたというのが食史の学説ですが、振り返ってみると、国は一度も扱ってこなかったといえます。 平成28年5月3日 |
鮎納竿祭ひと頃まで、この頃にさまざまな収穫祭がおこなわれました。田んぼにいた神が帰るという暦10月10日、11月21日の「とうかんや」や「えびすだいこく講」など、東国の産物に沿った庶民行事です。店ではこれらを意識的に献立に取り入れ、定例会として発表しています。 夏の間より、酒匂川という小田原市街の東側に位置する二級河川で釣り上げた鮎を3人の釣り名人が届けてくれます。この鮎は北大路魯山人という食通が、夏の土用までは関東では一番だと記していたのですが、上流にダムができて、この文章がK社文庫から消えてしまいました。
参加者が三浦半島界隈の自然栽培に近い生産者らを知っていて、この日はもぎたての大粒みかんを持ってきてくれた。木菓子(きがし)としました。 秋の鮎を見ていると、我が身の晩節をつい思って重ねてしまう。 平成27年11月22日 |
11月20日夕、8人で行事食を楽しみました。
上の写真は、赤魚はさしみ・赤めし・金時の煮豆・葱ぬた(小田原は葉ネギ)・豆腐汁・アユ出汁の蕎麦つゆ・みかん。 他に白菜鍋や日本酒を満福しました。 平成26年11月20日 |
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各地には、それぞれ1年に80食の行事食があるという説から取り組みました。
こしらえてみると、思い旨さがあり、上々の評判でした。あらためて先人の智恵を知ることができました。
「農文協 神奈川の食事」を軸にさまざまな資料を参考にし、自らの足元の食風景を描きました。アユをしょちゅう届けてくれる阿部健さん他たくさんの応援を賜りましたこと、厚礼申し上げます。こういう体に染み入る献立が消えていくのは、手間がかかり過ぎることや、環境の変化でしょうか。
平成25年11月23日 |
武士が力を誇った頃、料理も独自のかたちができました。
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鎌倉時代から関東の食は公家に出入りした時の振舞われた弁当を元に発達したといわれています。その時の弁に計らいいつでも、どこでも、詰めて持ち運べて、軽くて、栄養価が高く、濃厚な味に仕上がっていることです。今回は部屋なので、温かく柔らかくしました。 平成25年2月17日 |
日本茶いろいろ味くらべの郷土会席と題して、日本の茶所のひとつ、静岡県牧之原市出身の飯田辰彦氏を迎え、日本茶の成り立ち、文化、製造方法などを辛口で語っていただきました。
氏は世界中を駆け回り、数々の本を執筆しているノンフィクション作家です。新刊「日本の勘所、あの香気はどこへ行った?」の中で、私たちがさりげなく飲んでいる日本茶の奥深さを再認識させていただきました。 さまざまなお茶を産地に沿っておよそ三時間、お酒の入る余地のない、まさにお茶一色の例会でした。 なお、小田原の地元からは、足柄茶葉生産者 守屋栄治様ご夫妻が産品をご持参くださり、現場の話も詳しくうかがいました。 料理は、表題通り、茶所に土着した郷土料理をしつらえました。今回は、大井川を挟んだ東西のかたち、海山と高山(こうざん)川田畑それに流通は東海道、遠洋港と、ありとあらゆる食材が張りめぐらされ、どうまとめていいのか分からないぐらいでした。この献立の時代設定は昭和初期に定まったという設定になっています。 |
平成24年10月27日 |
●指導は神奈川県立図書館元調査部長の石井敬士さん
◎利休の弟子。秀吉に使え反駁し、小田原で再会し抹殺されたなぞ多き茶人。 5代氏直が招いた2年間の茶事献立を興しました。 後北条3代氏康の御成り本膳(将軍を招く)と同じころの松屋会記という茶事録を参考にしています。 |
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山上宗二研究という史料書が6月に手もとに入って、これまでお世話になった故人の先生のお二方が宗二に興味を持っておられたのを思い出しました。
平成23年10月30日 |
エノキは信州栄村の大庭さんの特殊育成もの。しゃっきり感、持ちが抜群。説明を聞くとこれからの農業のあり方や展望を示しているかのよう。 平成23年10月15日 |
使用した冬瓜は神奈川県三浦市の角田さん方のもの。肉厚、旨味申し分ない。
平成23年8月27日 |
北条玄庵は小田原城の北裏筋の重要関を守った。早雲の子息で5代を見つめた賢人として知られる。池が今もあり、心形をして小さいが風情がある。借名は本名からずらすのが慣例。 平成23年6月26日 |
酒井利幸 四方山話(春の摘み草1)より
今から2か月程前だったでしょうか。米橋さんから摘み草籠料理をやってみたいとの話しがありました。季節に合わせて何が使えるのか?どう料理するのか?と打ち合わせを重ねました。 小田原周辺は、海岸・平野・山地など変化に富んだ地形に多数の植物が生育する環境となっています。当然のことながらも、摘み草に適した草も多いということが言えます。 万葉のもっと前から江戸時代にかけても摘み草は身近でした。 「君がため 春の野に出て 若菜摘む わが衣手に 雪は降りつつ」 早春に、乙女が七草を摘んでいる情景が目に浮かぶようです。 高度成長を成し遂げた、近代日本の私たちが忘れかけている摘み草文化を、もう一度見直してみることも良いのではないかと思います。 |
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平成22年11月21日に、歴史・郷土献立の例会を催しました。その際に、「小田原と食文化」と題して、石井敬士氏の短い講演をいただきました。。
七つ立ちと言って朝四時に出て、一日歩くのは男は40キロ女は30キロでした。小田原は江戸から戸塚に次いで二泊目。女はおよそ三泊目。江戸から京都まで男で12〜14日かかりました。本陣4、脇本陣4計8つは東海道で一番大きな宿でした。(二番目は箱根で7つ)近郊のものが所用で利用する商人宿も街道やや離れてありましたが、旅人の旅籠は95軒。宿場の人口5,404人。武士を除いて1,542戸。宿内は漁業はあったが生活活動がありません。 柳家三三小田原出身の落語家がいますが、小田原を舞台とした落語に三人旅とか抜け雀。弥次喜多の五右衛門風呂。芝居で外郎売。浮世絵もあります。 旅籠には等級がありました。木賃宿は自炊。薪の値段。旅籠は95軒から100件前後あって賃料200文。旅費が一日分を守貞漫稿では二八そばから24文と換算して400文で一万円。中村仲蔵の自伝からは7千円から1万円と算出。一日あたりの費用から半分を旅籠代に使ったようです。 この献立からするとこれは上流の人の1万円以上。相当贅沢な内容です。 ●著者宇佐美ミサ子氏は1泊1万2千円としています。 名物について。ういろう。梅漬。いかの塩辛。かつおのたたき(身の切れ端や小骨を叩いて混ぜた塩辛をいう)、ちょうちん。 特徴として、城下町であり宿場町も兼ねた点が挙げられます。お城ばかり語られますが宿は取り上げられません。これは今後の課題だと思います。 |
「おだわらの旅籠食」
小田原宿
要点:カレイは火を加えても固くならない。白身魚なので東西老若それぞれに合う。江戸時代の調理は味噌が基本だった。
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